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第38話 古墳時代の日本語 『古事記』の伝えるところによれば、応神天皇のときに百済の使者阿直岐(あちき)が来た。天皇は「もし賢き人がいたら奉れ」といわれた。そして、阿直岐の 推挙によって、和邇(わに)という史(ふひと)が百済から使わされてきたという。和邇はこのとき『論語』10巻、『千字文』1巻、あわせて11巻をもたら したという。 最 近の考古学の発達によって、日本人は5世紀には漢字を習得していたことが明らかになってきた。このことを物語る史料として、埼玉県行田市稲荷山古墳出土の 鉄剣の銘文をあげることができる。稲荷山古墳は全長118.5メートルの前方後円墳で、二重の濠をめぐらしている。昭和43年に行なわれた発掘で、武人の 被葬者が発見され、副葬品のなかには鉄剣が含まれていた。当時、この鉄剣はサビで覆われており、文字の存在はまったく気づかれていなかった。10年後の昭 和53年になって、この鉄剣には金象嵌の文字があることが、保存処理中に判明した。その銘文はつぎのようなものである。(傍点は固有名詞) (表)辛亥年七月中記乎
獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加
利獲居其子名 (裏)其児名加
差披余其児名乎獲居臣世々爲杖刀人首奉
事来至今獲加多支鹵大王寺在斯 この銘はつぎのように解読されている。 (表)辛亥の年、7月中に記す。ヲワケの臣、その祖先の名はオホヒコ。
その子はタカリ
の 宿禰。その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキ ワケ。
その子の名はハテヒ。 (裏)その子の名はカサハヨ。その子の名はヲワケの臣。代々、杖刀人の
首(おびと)とし この鉄剣には「辛亥(しんがい)の年7月中記す」 という年紀が刻まれている。辛亥年は471年(または531年)で、5世紀末か6世紀の初めに作られたものだと考えられている。文章は漢文だが、固有名詞 は当時の日本語をうつしている。 鉄剣には115字の銘文が刻まれている。銘文の主 人公はヲワケ(乎獲居)である。その祖先とされるオホヒコ(意富比垝)から8代の系譜が記されている。銘文のなかの名前を中国の言語学者、王力の古代中国 語音で読んでみるとつぎのようになる。 乎 獲居[ha・hoak・kia]、 意富比垝[iək・piuək・piei・ngiuai]、 多加利足尼[tai・keai・liet・tziok・niei]、 弖已加利獲居[tyei・jiə・keai・liet・hoak・kia]、 多加披次獲居[tai・keai・phiai・tsyei・hoak・kia]、 多沙鬼獲居[tai・sheai・kiuəi・hoak・kia]、 半弖比[puan・tyei・piei]、 加差披余[keai・tsheai・phiai・jia]、 獲加多支鹵[hoak・keai・tai・tjie・la]大 王、斯鬼[sie・kiuəi]宮 古代文字の解読は専門家の領域で、一般の人には 理解できないものと、従来考えられてきた。しかし、古代中国語の音価をアルファベットに近い形で表記してみると、誰でも解読に参加できる。 ○ 乎・獲 「乎獲居」の乎[ha]、獲[hoak]の頭音[h]は日本語音にはない喉音である。調音の位置が日本 語のカ行に近いので、日本漢字音ではそれぞれ乎(コ)、獲(カク)とカ行で読む。しかし、5世紀の日本語では喉音の[h]が失われて「ヲ」、「ワケ」とワ行音にあてられて いる。 ○ 居 「居」の古代中国語音は居[kia]であり、日本漢字音は居(キョ)である。朝鮮漢字 音は居 (keo)である。朝鮮漢字音では頭音[k-]のあとのわたり音[-i-]は失われる。例えば、九(ku)、久(ku)、 許(heo)である。稲荷山鉄剣の漢字は朝鮮漢字音の影響を受 けている可能性がある。 ○ 足・尼 「足尼」は宿禰である。日本漢字音では宿 は呉音が宿(スク)、漢音が宿(シュク) である。宿の朝鮮漢字音では宿(suk) で あり、呉音は朝鮮漢字音に近い。日本語の漢字の読み方は、朝鮮漢字音の影響を受けており、日本語の宿禰(すくね)は朝鮮漢字音の影響である。 ○ 意・富 「意富比垝」の「意富」の朝鮮漢字音は意(ui)、富(pu)である。古代中国語音は中国語 は意[iə]、富[piuək]である。中国語のわたり音(i介音)は隋唐の時代以降に発達したものだとされて いるから、5世紀の中国語音は意[ə]、富[puək]に近かったものと思われる。富は声符が福と同じで あり、中国語音は韻尾に[-k]があったと思われるが、ここでは日本語の「ほ」対 応している。「意富比垝」は「おほひこ」に比定できる。 ○ 支 「獲加多支鹵」の「支」は飛鳥時代の日本語を 写した推古遺文でも「支」は「キ(乙)」とし て用いられている。漢字には同じ声符が、 カ行とサ行に読み分けられるものがかなりある。「支」の日本漢字音は「シ」だが、「岐阜」では「ギフ」 であり、「技術」は「ギジュツ」であ る。同じ声符をカ行とサ行で 読み分ける漢字は多い。
技[gie]・
枝[tjie]、
感[həm]・
鍼[tjiəm]、
勘[khəm]・
甚[zjiəm]、 絢爛(けん
らん)・旬(じゅん)、伯耆(ほうき)・嗜好(しこ
う)、祇園(ぎおん)・氏(し)、
活(かつ)・舌(ぜつ)、
宦官(かんがん)・臣(しん)、
乾坤(けんこん)・神(し 台湾の言語学者である董同龢は『上古音韻表稿』(p.16)に例をあげて「旨tś:耆g’、赤tś’:郝x、示dź’:祁g’などは上古に於てはk-、k’-、g’-などでであった」としている。「獲加多支鹵(ワカ タケル)」の「支(ケ)」は古い中国語音を留めている。 稲荷山鉄剣に使われている文字は5世紀の日本漢字 音の基準点ともなるべきものである。これらを手がかりに銘文を読むとつぎのようになる。 乎 獲居(をわけ)、意富比垝(おほひこ)、多加利(たかり)の足尼(すくね)、弖已加利獲居(てよかりわけ)、多加披次獲居(たかはしわけ)、半弖比(はて ひ)、加差披余(かさはよ)、獲加多支鹵(わかたける)大王、斯鬼(しき)の宮、 ここまで解読できると、『古事記』や『日本書紀』 にでてくる人物に近い名前が見えてくる。「意富比垝」は『古事記』では「大毘古命」(『日本書紀』では「大彦」)である。「獲加多支鹵」は「大長谷若建 命」(『日本書紀』では「大泊瀬幼武天皇」)であろう。大長谷若建命「オホハツセワカタケルノミコト」とは雄略天皇の和名である。雄略天皇という漢風の名 前は『古事記』にも『日本書紀』にもまだ現れていない。天皇の名前が仁徳とか雄略というように、漢風諡号で呼ばれるようになったのは後のことである。この 系譜には比垝、足尼、獲居など身分的呼称が含まれている。比垝は彦、足尼は宿禰、獲居は「別」あるいは「幼」であるとされている。 雄略天皇の時代に日本で漢字が使われるようになっ ていたことは、日本語の成立を知るうえで重要な手がかりを与えてくれる。『万葉集』巻一の最初の歌が雄略天皇の歌である。また、古事記歌謡では雄略歌群が その中心をなしている。5世紀の歌である『古事記』や『万葉集』にある雄略天皇の歌は、一般には5世紀から8世紀まで口承によって伝えられたと考えられて いるが、5世紀には稲荷山鉄剣の刻印にみられるように日本列島で漢字が使われていたことは明らかであり、5世紀にはすでに史(ふひと)によって漢字で記録 され、8世紀に『古事記』や『万葉集』が成立するとそれらの記録をもとに載録された可能性がある。 『古事記』は推古天皇の時代までの歴史が記録され ているが、雄略天皇より後は王室の系譜を記すのみである。『古事記』の編者である太安万侶は帝紀や本辞などを参考にして『古事記』を編纂している。『古事 記』の記述が雄略天皇までの時代について詳しいのは、『古事記』の依拠した原典はすでに5世紀には存在していた可能性を示唆している。『古事記』や『万葉 集』の編者は5世紀から伝えられた文字資料を利用できた可能性すらある。 |
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